人生の目的というもの

人生において、「成功」を目指すのか、「幸福」を目指すのかという話があるとしよう。

 

少し考えれば両者が決して対概念ではない事が判るが、便宜的に、「成功」を、絶対的成功(絶対的幸福)・「幸福」を、相対的成功(相対的幸福)と言い換えて考えてみよう。

 

つまり数字や事実など客観的に見て成功と言えるような、社会共通の基準を満たしている人生と、一方で、自分だけが成功したか否かを自由に判断する人生とである。

 

 

どちらが正しいかと問う事はできないが、どちらを選ぶかと問う事はできる。

 

ただし、必ずしも両者のいずれか一方のみを選ぶ必要もないのやもしれない。

 

場合によって変わるとすると、人生の目的観として当然ブレが生じてしまうので、そのパターンはあり得ない。

そう言う人が仮にいた場合には、つまり人生の目的を選べていないという事になる。

 

ではどのような場合に両者の共存が実現するのか?

 

たった一つだけ実現するパターンとして、「自分の成功や幸福が全人類の成功や幸福と同時に満たされる場合」である。

 

そのパターンの実現には必須条件があり、即ち全人類が全く同じ目的観を持つという事である。

 

考察を進める。

畢竟、他者の成功や幸福を願う事が絶対的成功(幸福)と相対的成功(幸福)との親和を深める事になる。

 

絶対的な基準に寄る程、基準は自己から社会へと離れてゆく。

一方で相対的な基準に寄る程、基準は社会から自己へと狭まってゆく。

 

しかしながら、この中点は自己と全社会の平均の人数の基準ではない。

絶対的か相対的かという問いの前に、人数は関係ない。

 

この考え方をより理解する為にまた別の軸を明らかにする。

 

言うまでもなく両者の人生観の共存において自己中心的成功や幸福の観点は介在しない。

その代わり、自分の周りのより近しい人々の成功や幸福が問われるようになる。

 

この範囲が同心円上で、理論上無限に膨張する訳だが、究極的には例外の有無によって絶対的か相対的かが決定される。

 

例外・条件のない、他者の成功や幸福と同時に満たされる自己の成功や幸福ならば両者の共存が成立する。

 

反対に、例外・条件付きで成立する場合は両者の共存は理論上成立しない。

 

一、他者の成功や幸福が自己の人生の目的観に包含されるか否か

二、「他者」に例外が介在するか否か

 

という二点が、「成功」と「幸福」という二つの人生の目的を同時に満たすか否かを分かつ条件となる。

 

 

 

と、考察してみました。

 

ちなみに、α氏という人物は、社会的に成功して、多くの人類の発展に貢献し、余生は何不自由ない生活を謳歌したという反論があったとしよう。

つまりこのような「成功」もして「幸福」にもなった人物がいたとして、両者が共存している、両立している。僕が論じた二つの条件を満たしていまいではないかという反論だ。

 

が、残念ながらこのα氏は「成功」と「幸福」の両立はしていない。

それは何故か?

何故なら、彼の「成功」と「幸福」は同時に達成されたものではないからである。

仮に、彼の「成功」を彼の「幸福」と重ね合わせようとするとしよう。

つまり一人でも多くの人類の役に立つ事が彼の人生の目的だとする。

 

一見すると非の打ち所のない崇高な人生観だが、「一人でも多くの」という概念が絶対的概念ではない点こそが致命的なのである。

 

無論、「一人でも多く」という概念が、最終的に最後の一人まで包含する可能性がある事はいうまでもないが、最後の一人まで包含しなかったとしてもこの概念は成立する。

つまり妥協可能な概念なのであり、絶対的概念の前に実に身勝手な基準であると言わざるを得ないものなのだ。

 

たとえα氏が、例外なく全人類の役に立って、それを生きがいだと感じているとしても、「誰一人例外なく」という恣意的な目的意識が無い限り、例外を許容し得る概念を持ち続ける事になる。

 

この点は致命的に絶対的概念に到達する事を阻害していると言える。

 

 

最後に…

この考察は、「成功」や「幸福」に関わる個々のあらゆる人生観を否定するものではありません。

あくまで両者の共存可能性を論理的に考察したに過ぎません。

ご了承願います。

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

 

ではまた。